北海道炭鉱研究会 羽幌炭鉱支部

朔北のヤマ 羽幌炭鉱

築炭ニュース 第26号(昭和26年10月15日)1面②

『怪我なし月間 自十月一日 至十月三十一日』

<標語>無事故で楽しい職場を守ろう

『人事往来-九月-』

○一日朝比奈常務帰山、羽幌拓銀支店長外十一名来山 ○三日常務出札 ○五日岡分担区員上水道及本坑借地の件にて来山 ○六日国税局大橋氏事務監査のため来山 ○七日留萠労働基準監督署長 事務監査のため来山 ○八日石炭局谷本氏道庁山崎氏来社 ○九日留萠保健所員六名結核検診のため来山 ○十一日留萠安定所泉谷氏事務打合せのため ○十六日常務札幌より帰山 ○十八日新川保安監督官機電関係調査のため来山、磯野所長外七名羽幌へ ○二十七日経済調査局長高野氏事務調査のため来山 ○二十九日留萠税務署芳賀氏、開発局藤野氏各々事務監査及調査のため来山 ○三十日留萠税務署直税課長事務監査のため来山

『9月出炭実績』

築炭ニュース 第26号(昭和26年10月15日)1面『9月出炭実績』

『大竪入起工式 降雨中施行さる』

主要運搬坑道施工の起工式は去る十月一日午後一時より大竪入開さく現場で羽幌町長代理橋詰助役、中山警察署長、地崎組社長、佐藤安定所長等の関係者をはじめ朝比奈常務、彼末監査役、磯野鉱業所長各坑課長多数列席のもとに盛大に挙行せられた。

当日は折悪しく時雨があつたが雨降つて地固る諺の如く大工事の起工式にふさわしく幸いよい式典日であつた。

尚この工事は昭和二十八年度にまたがる大工事で完成の暁には現在のエンドレスは廃止され坑内-新ポケツト場間は電車によつて直結されポケツトに集る石炭はコンベヤーによつて選炭場に送られることになり、年産二十万トンを目指す送炭能率に一大威力を発揮されることになる。

上水道かま入れ式』

炭礦住民の死活問題に大きな福音をよせる上水道施設工事の起工式は去る九月十八日築別川上流の取水ダム設置現場で各関係官多数列席の上盛大に取行はれた。この日夜来の雨もすつかりあがり好天のもと旭川管理部資材庫山田氏、町長代理中本助役、地区署長齋藤彰氏等の顔も見ら、会社側からは朝比奈常務、彼末監査役、磯野鉱業所長はじめ各坑課長の参列により力強いかま入れ等の儀式が取行われた。引続き関係官庁その他の祝電の朗読玉串奉奠があつて伊藤技師による着土に至るまでの経過報告など長時間に亘り式典が催された。この工事は明年八月を完成目途に総工費約四千百九十四万円の予算で施工されるが年内には鉱業地の一部に給水できる見込みである。

『出稼優良者など表彰式』

鉱業所では去る九月十九日会社会議室で彼末監査役、鉱業所長、各課坑長組合常任参席のもとに人命救助災害防止出稼優良者などの表彰式を行つた。

●人命救助功労者

指導員高島吉道、採炭夫土岐頼光、掘進夫北田次作の三君は去る八月二十七日坑内崩落事故の際、吾が身の危険もかえりみず同僚埋没現場にかけつけ救出に努めた功に依る。

●災害防止の功労者

木工場鉱員菅原晃君は去る九月初旬(三日)大出水の際橋の流失を懸念し自ら濁流の中に身を投じ流木切断作業に努め橋の流失を固守したもの。

●出稼優良者

日下部太市(採炭夫)

杉本年夫(〃  )

佐々木利一(〃  )

中島繁雄(〃  )

佐藤正蔵(〃  )

菅原三郎(〃  )

鈴木和雄(〃  )

髙橋一雄(〃  )

藤井寅治(〃  )

佐賀五郎(〃  )

佐藤源二(〃  )

荒野慶一(仕繰夫)

大山廣行(掘進夫)

安部義光(〃  )

多田千尋(〃  )

金澤豊一(〃  )

須郷豊太郎(充填夫)

成田淸(〃  )

多田求馬(〃  )

既報築炭ニユースで発表された出稼優良者で常に勤務精励出炭に功績ある人達である。

『エンドレス』

絵に画いた餅と言う。画いた餅では大観画伯が画いたものでも、青児画伯が画いた餅であつても、決して食えない。つまり画いた餅に上手下手があつても餅そのものではないから食えないのだ。画いた餅を手本にして餅そのもの、うまいまずいの批判をする程馬鹿げたことはない。これ程簡単なことは誰でもわかつているが似たような間違いを人間はよくやる。資本主義と云い、社会主義と云い、共産主義と云う、いづれも画いた餅であり現実の餅は生きた社会そのものである。

現実の社会をよりよくする努力をたな上げにして主義がなければ夜も日も無いと言うのがある。大観の餅が余り実物に似ているので絵に画いた餅を実物と錯覚を起しているのだ。

複雑な近代社会を一片の現論で片づけられると考えるならば神を怖れぬ、人間の増長慢もこれまでくればおしまいである。

現実は現実。絵は絵として鑑賞する余猶がほしいものだ。

築炭ニュース 第26号(昭和26年10月15日)1面①

発行所

北海道天塩国苫前郡羽幌町築別御料上流(電話羽幌15番) 羽幌炭礦鉄道株式会社

編集兼発行人

齋藤隆夫

印刷人

金子長次

『炭山のオアシス なんとかならぬか 会舘新築希望たかまる』

炭礦での会舘〔築炭会館〕は砂漠のオアシスに等しい。乾燥し切つた砂の上を何十日も続けて旅をする人々、駱駝の背で炎熱にやかれ乍ら喉も乾き切つた旅人にとつて唯一の緑地。冷い泉と蔭は無上の憩いであるときく。

炭山の会館は従業員とその家族の只一つのオアシスであるだろう。しかし現状は果してオアシスであろうか。明日の労働意欲をたくわえる慰安の場所となつているだろうか

<写真>-おそまつな現在の会舘-

 

『現在の会舘〔築炭会館〕では映画は月四回まで 保健所の勧告』

現在の会舘は当初屋内体育場として建設されたもので最近のように映画娯楽に利用されるように当然興行場法、建築基準法の適用を受けることとなる。

そこで現建物を可能な範囲で基準に適合するよう手入しているがその限度に達して現施設では如何とも出来ずしかも築炭住民にとつてはこの会舘だけが唯一の娯楽場であるだけに会舘新築の要望は最近とみに強くなつてきた。

これに関して保健所の意向は左の通りである。

 

『保健所の勧告』

福利厚生施設として唯一の娯楽場である会舘はその用途も広く、特に映画、演劇等を一ケ月相当日数行われる筈で、そうなれが所謂興行場として許可を受けなければ反覆継続することが出来ない。

即ち法としての解釈は既存建物に於て一ケ月五日以内の期間であれば毎月反覆して興行場を経営してもその建物は興行場としての許可を要しないが、一ケ月五日以上であるときは、その月一ケ月だけでもその建物は臨時興行場としての許可が必要である。しかし毎月この方法で継続する時は常設興行場となる。

従つて現在の施設では建築基準法に基いても又は興行場法の施設基準にも合致せず興行場としては許可にならないので常設興行場としての企画に適した新築の計画を至急実現されるよう特に配慮願いたい。

 

『会舘新築計画の経過』

築炭会舘の建設計画は昭和二十三年から始まる。

当時炭礦住宅建設と相俟つて会舘の新築が計画され、その資金として炭住資金の融資を政府に申請したが、この資金を目当てに総坪数三〇〇坪、二階建、一〇〇〇人収容の留萌地方随一の劇場が生まれ出る筈であつた。(凸版写真は当時の設計図)

ところが申請した炭住資金の枠が削除されたため当時社宅不足で困つている従業員が多かつたので社宅の建設戸数を減すわけには行かず、残念乍ら会舘三百坪が削られて翌年廻しとなつたわけである。

さて廿四年にこそ建設の実現を期すべく接衝を重ねたが政府の融資の枠がつまり従つて炭住資金も最小限度に圧縮され、一切の不急施設は後廻しという情勢となり、あまつさえ石炭販売の統制方式も改正され所謂石炭業の自由競争時代となつてきた。

そのため中小礦は生か死かの土壇場となり健全な自立対策を講じる必要に迫られ福利施設面は一時お預けとなつて現在に至つたものである。

築炭ニュース 第25号(昭和26年10月1日)

【1面】

『講和記念特集 従業員慰安大運動会 平和日本万歳を三唱して散会』

<写真>大西庶務課長の発声で万歳する役員選手一同

<写真>下は障碍物競走…(右)人がアミにかゝつたと子供達もよろこぶ。(左)かぶるものにこと欠いて俵の帽子とは! 万国旗も笑つている。随分無恰好な帽子だなア

<写真>下は俵かつぎリレー(右)重量級選手の土俵のバトンには一寸簡単にはいかぬよう。見ている方も力がはいる。(左)鐘のなる方へ こつちだ、おいで、おいで。

写真説明

上より

①…方面対抗百米競走-所長も自分の三区選手を激励する。

②…来賓のスモーキング-鼻の先をやかぬよう御用心。

③…前同-実事な腰の構え!お座り型?そしておりしけ型など。

④…びんつり-釣れた、釣れた。彼末重役も御満悦。中山警察署長さんもびん釣りは苦手らしい。

⑤…消さぬよう-赤ちやんを抱いているようなポーズは基準監督署の藤井署長さん。

⑥…前同-あわてるとマツチもつきませんよ。⑦…方面対抗リレー-お父ちやん頑張れ。なーんだ、ぬかれちやつたよ。

 

【2面】

『秋晴れの空に健康な笑いと声と』

<写真>応援団頑張る お父ちやん頑張れ。兄ちやん抜かれるよ。 彼氏しつかり!うちのあの人も相当なもんねぇ…

<写真>張切り女子選手のスタート この素晴しいファイトはどうか! 邪魔すると踏みつぶされますよ。

<写真>朝比奈〔朝比奈敬三〕常務盃は第一区に 第一区(末広町)は総得点では三位であつたが力戦奮闘の結果各種対抗競技では最高であつた。 盃を持つた人、斗樽を担いだ人、女子優賞盃を持つた顔、なんと盛大な行進曲であることよ。

<写真>-綱引き-みている方でも力がはいる。婦人達を前衛にして頑張る両軍、どつちも強いので遠くからみると戦線はまさに膠着状態。しんがりで磯野所長も千人力を出している。婦人達の力も集まれば炭車の百や二百は朝めし前-

<写真>①所長盃授与 職場対抗リレーで優賞した鉄道職組が所長盃を受ける。

<写真>②島内〔嶋内義治〕常務盃授与 女子方面対抗リレーで優賞した末広地区(一区)が島内常務盃を授与された。

<写真>③町田〔町田叡光〕専務盃授与 各職場対抗リレーで優賞した坑内間接職場が町田専務盃を授与された。

<写真>④優勝旗授与式 二区(古賀、谷、岡町)が最高九七点を獲得して優賞し優賞旗を獲得した。

<写真>⑤なごやかな風景 これだから運動会見物は止められない。

『石炭羽幌』と『築炭ニュース』

『石炭羽幌』は1949年(昭和24年)に『築炭ニュース』として誕生し、

当初は築別鉱業所(築別坑)のニュースを中心に取り扱いました。

その後、羽幌鉱業所(羽幌本坑、上羽幌坑)での業務拡大に伴う1953年(昭和28年)の第42号での改題を経て、

閉山する1970年(昭和45年)までの間、継続して発行された羽幌炭礦鉄道株式会社の機関紙です。

その内容は会社の近況を知らせるものだけではなく、町政道政のニュースや実業団の活動報告、

近隣小中学校の行事案内、更には短編小説や四コマ漫画など多岐に亘っており、1960年(昭和35年)時点では月2回 6~16頁で約3,100部発行されていました。

 

残念ながら、『築炭ニュース』と『石炭羽幌』は現在閲覧が難しい状況に置かれています。

国立国会図書館には第1号のみマイクロフィルムでの所蔵、

北海道立図書館には第101号から第200号までの合本の所蔵。

これ以外には非公開の所蔵があるのみで、閲覧や収集を行うことは非常に困難です。

 

北海道内において機関紙を発行していた炭鉱を見てみると、

1960年当時で北海道炭礦汽船株式会社、三井鉱山株式会社、

三菱鉱業株式会社、住友石炭鉱業株式会社、太平洋炭礦株式会社などの大手炭鉱に加え、

中小炭鉱だと羽幌炭礦鉄道㈱系列の月形炭鉱、昭和電工株式会社の豊里炭鉱で発行されているのみであることから、

多くの北海道の炭鉱の中でも珍しい存在であることが分かります。

 

では、羽幌では如何なる理由で機関紙が発行されるようになったのでしょうか。

その理由を示す記述が『石炭羽幌』に掲載されていました。

 

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こうして誕生した『築炭ニュース』と『石炭羽幌』。

その紙面からは羽幌炭鉱というヤマのあらゆる記憶が蘇ります。

 

 

 

明治期の羽幌炭鉱-3

『北海道鉱床調査報文』での報告の後、ようやく羽幌では石炭の採掘が行われることになります。

その最古の記録は1892年(明治25年)。

久松義典『開拓指鍼 北海道通覧』(1893年)878-881頁によると、富岡海蔵が60万坪、山田忠次郎が149万5千坪の鉱区を所持し、富岡が600貫の石炭を産出したとのことです。

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この両名の記録はこれのみに留まり、その後どのような経過をたどったのかは不明です。

 

この後に鉱区の設定を行った人物については、羽幌炭礦鉄道㈱の十年記念誌である齋藤隆夫 編集『拾年の栞』(羽幌炭礦鉄道株式会社 1950年)に記述があります。

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「史実は詳かでないが」と書かれているように、なんとも曖昧な記述ですが読み解きましょう。

【第一の鉱区】

天塩国採掘登録番号13、14は1894年(明治27年)または1895年(明治28年)頃、生保内弥助が設定。

その後、1896年(明治29年)に岡田佐助に譲渡され、1897年(明治30年)、1898年(明治31年)の冬季に開坑して馬搬による出炭を行い約1万トンの石炭を採掘。

天塩国採掘登録番号13、14というのは初山別村栄地区を流れるセタキナイ川上流に存在し、

後年、羽幌炭礦鉄道㈱が所有した際には「栄坑」として採掘が行われた鉱区でした。

鉱山監督署の『鉱区一覧』によると鉱山名「セタクコナイ」とも記載がありますが、

「セタキナイ」が訛音したものとみなしていいかと思います。

多分この辺りです。

鉱区図は残念ながら手元に無いので、現時点ではこの程度でご容赦ください。

どこかで閲覧できるといいんですけどね。

ちなみに岡田佐助は札幌の中島公園にある岡田山にも名前を残している人で実業家だったみたいです。

詳細は以下の史料で。

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【第二の鉱区】

天塩国採掘登録番号57は1894年に佐藤平助によって設定、採掘は未実施。

この鉱区も羽幌炭礦鉄道㈱の築別坑として採掘が行われます。

 

【第三の鉱区】

天塩国試掘登録番号4459は1900年(明治33年)頃、渡邊祐太によって設定。

1901年(明治34年)~1902年(明治35年)に僅かに出炭したとのことです。

この炭鉱は「鷲峰炭鉱(鷲峯炭鉱)」として後年にも採掘が行われます。

なお、羽幌二坑(上羽幌)方面にあったこの鉱区は、羽幌炭礦鉄道㈱には引き継がれなかったようです。

 

【第四の鉱区】

天塩国採掘登録番号41、44は1901年に大松兼太郎が鉱区設定。

その後、渋谷嘉助に鉱業権が移り1916年(大正5年)~1917年(大正6年)に5~6千瓲を出炭したと。

しかし運搬設備が整備されていなかったことから続行が不可となり、出炭停止。

その後、羽幌炭礦鉄道㈱では羽幌本坑として戦後まで存続します。

 

これらが羽幌における最初期の鉱区でした。

 

明治期の羽幌炭鉱-2

ライマンによる調査の後の約10年間、羽幌の石炭については引き続き触れられることがなく時が流れていきます。

羽幌の石炭が初めて世に知られるのは1891年(明治24年)に編纂された『北海道鉱床調査報文』がきっかけでした。

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同史料は農商務省地質調査所技師 原田豊吉の「日本地質構造論」や北海道庁技師 神保小虎の「北海道地質略論」の地質論を基に、

北海道庁技手 石川貞次・横山荘二郎、大日本帝国海軍大佐 肝付兼行など各専門家の記述によって構成されています。

各地の石炭、石油、硫黄、その他金属に纏わる報告が挙げられる中、羽幌の石炭に関する記述が以下のようにあります。

 

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『北海道鉱床調査報文』

 

当時、天塩国ルルモッペ郡サントマリ村ヲビラシベッ川上オキナイ(小平町沖内)では石炭の試掘が行われていたため、

留萌煤田(留萌炭田)は知られていました。(多羅尾忠郎 編『北海道鉱山略記』(北海道庁 1890年)133-134頁)

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そんな留萌煤田の北にある羽幌煤田(羽幌炭田)は質が良く、開削に適した層もあり炭量も1249万トンあるらしい。

しかし、そんな羽幌煤田の輸送に使用する羽幌川は浅瀬が多く、船で炭鉱で出炭した石炭の輸送ができない。

13マイル(約20km)の距離の輸車路を作って、苫前村(苫前町)で船積みする他に良い方法がない。

また築別川にも炭層が見受けられるけれども薄っぺらい。

 

なんとも微妙な評価を受けていますね。

結局、輸送手段がないために厳しそうな見通しを示されてしまいます。

羽幌炭礦鉄道㈱が鉄道を初めに作った理由はこの辺りからもなんとなく見えてくる気がしますね。

明治期の羽幌炭鉱-1

ベンジャミン・スミス・ライマン(Benjamin Smith Lyman)はアメリカ人地質学者で、

北海道開拓のための技術者として開拓使に招かれました。

ライマンは北海道内にて3回の調査を行っていますが、1874年(明治7年)5月から5ヶ月間かけて行われた2回目の調査では、

道内を反時計回りに巡りつつ、各地の地質調査を行っています。

その行程については以下の資料が詳しいので、興味がある方はそちらをご参照ください。

 

副見恭子「ライマン雑記(10)」(地質調査所『地質ニュース』第476号、1994年)

www.gsj.jp

副見恭子「ライマン雑記(11)」(地質調査所『地質ニュース』第486号、1995年)

www.gsj.jp

 

1874年(明治7年)9月30日、ライマンはフウレベツ(風連別=初山別村豊岬)から

トママイ(苫前=苫前町苫前)までの行程において、築別での地質調査を行っています。

ライマン自身が記した記録としては、"Report of a geological trip through and around Yesso"があるので、以下で引用します。

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"Report of a geological trip through and around Yesso"

 

これを日本語訳したものが「来曼氏北海道記事」 として、

北海道庁編『新撰北海道史』第六巻史料二(北海道庁、1936年)にも掲載されていますが、

原文の"Report of a geological trip through and around Yesso"の方が正確でしょう。

いずれにせよ、この際の調査においてライマン達は築別を訪れてはいるものの、

緑灰色の砂岩の崖があること、大量の化石があることを認識しただけで、

石炭の存在については一切触れていません。

この時は残念ながら石炭は発見されなかったようです。