明治期の羽幌炭鉱-2
ライマンによる調査の後の約10年間、羽幌の石炭については引き続き触れられることがなく時が流れていきます。
羽幌の石炭が初めて世に知られるのは1891年(明治24年)に編纂された『北海道鉱床調査報文』がきっかけでした。
同史料は農商務省地質調査所技師 原田豊吉の「日本地質構造論」や北海道庁技師 神保小虎の「北海道地質略論」の地質論を基に、
北海道庁技手 石川貞次・横山荘二郎、大日本帝国海軍大佐 肝付兼行など各専門家の記述によって構成されています。
各地の石炭、石油、硫黄、その他金属に纏わる報告が挙げられる中、羽幌の石炭に関する記述が以下のようにあります。
当時、天塩国ルルモッペ郡サントマリ村ヲビラシベッ川上オキナイ(小平町沖内)では石炭の試掘が行われていたため、
留萌煤田(留萌炭田)は知られていました。(多羅尾忠郎 編『北海道鉱山略記』(北海道庁 1890年)133-134頁)
そんな留萌煤田の北にある羽幌煤田(羽幌炭田)は質が良く、開削に適した層もあり炭量も1249万トンあるらしい。
しかし、そんな羽幌煤田の輸送に使用する羽幌川は浅瀬が多く、船で炭鉱で出炭した石炭の輸送ができない。
13マイル(約20km)の距離の輸車路を作って、苫前村(苫前町)で船積みする他に良い方法がない。
また築別川にも炭層が見受けられるけれども薄っぺらい。
なんとも微妙な評価を受けていますね。
結局、輸送手段がないために厳しそうな見通しを示されてしまいます。
羽幌炭礦鉄道㈱が鉄道を初めに作った理由はこの辺りからもなんとなく見えてくる気がしますね。