明治期の羽幌炭鉱-1
ベンジャミン・スミス・ライマン(Benjamin Smith Lyman)はアメリカ人地質学者で、
北海道開拓のための技術者として開拓使に招かれました。
ライマンは北海道内にて3回の調査を行っていますが、1874年(明治7年)5月から5ヶ月間かけて行われた2回目の調査では、
道内を反時計回りに巡りつつ、各地の地質調査を行っています。
その行程については以下の資料が詳しいので、興味がある方はそちらをご参照ください。
副見恭子「ライマン雑記(10)」(地質調査所『地質ニュース』第476号、1994年)
副見恭子「ライマン雑記(11)」(地質調査所『地質ニュース』第486号、1995年)
1874年(明治7年)9月30日、ライマンはフウレベツ(風連別=初山別村豊岬)から
トママイ(苫前=苫前町苫前)までの行程において、築別での地質調査を行っています。
ライマン自身が記した記録としては、"Report of a geological trip through and around Yesso"があるので、以下で引用します。
これを日本語訳したものが「来曼氏北海道記事」 として、
北海道庁編『新撰北海道史』第六巻史料二(北海道庁、1936年)にも掲載されていますが、
原文の"Report of a geological trip through and around Yesso"の方が正確でしょう。
いずれにせよ、この際の調査においてライマン達は築別を訪れてはいるものの、
緑灰色の砂岩の崖があること、大量の化石があることを認識しただけで、
石炭の存在については一切触れていません。
この時は残念ながら石炭は発見されなかったようです。