北海道炭鉱研究会 羽幌炭鉱支部

朔北のヤマ 羽幌炭鉱

明治期の羽幌炭鉱-3

『北海道鉱床調査報文』での報告の後、ようやく羽幌では石炭の採掘が行われることになります。

その最古の記録は1892年(明治25年)。

久松義典『開拓指鍼 北海道通覧』(1893年)878-881頁によると、富岡海蔵が60万坪、山田忠次郎が149万5千坪の鉱区を所持し、富岡が600貫の石炭を産出したとのことです。

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この両名の記録はこれのみに留まり、その後どのような経過をたどったのかは不明です。

 

この後に鉱区の設定を行った人物については、羽幌炭礦鉄道㈱の十年記念誌である齋藤隆夫 編集『拾年の栞』(羽幌炭礦鉄道株式会社 1950年)に記述があります。

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「史実は詳かでないが」と書かれているように、なんとも曖昧な記述ですが読み解きましょう。

【第一の鉱区】

天塩国採掘登録番号13、14は1894年(明治27年)または1895年(明治28年)頃、生保内弥助が設定。

その後、1896年(明治29年)に岡田佐助に譲渡され、1897年(明治30年)、1898年(明治31年)の冬季に開坑して馬搬による出炭を行い約1万トンの石炭を採掘。

天塩国採掘登録番号13、14というのは初山別村栄地区を流れるセタキナイ川上流に存在し、

後年、羽幌炭礦鉄道㈱が所有した際には「栄坑」として採掘が行われた鉱区でした。

鉱山監督署の『鉱区一覧』によると鉱山名「セタクコナイ」とも記載がありますが、

「セタキナイ」が訛音したものとみなしていいかと思います。

多分この辺りです。

鉱区図は残念ながら手元に無いので、現時点ではこの程度でご容赦ください。

どこかで閲覧できるといいんですけどね。

ちなみに岡田佐助は札幌の中島公園にある岡田山にも名前を残している人で実業家だったみたいです。

詳細は以下の史料で。

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【第二の鉱区】

天塩国採掘登録番号57は1894年に佐藤平助によって設定、採掘は未実施。

この鉱区も羽幌炭礦鉄道㈱の築別坑として採掘が行われます。

 

【第三の鉱区】

天塩国試掘登録番号4459は1900年(明治33年)頃、渡邊祐太によって設定。

1901年(明治34年)~1902年(明治35年)に僅かに出炭したとのことです。

この炭鉱は「鷲峰炭鉱(鷲峯炭鉱)」として後年にも採掘が行われます。

なお、羽幌二坑(上羽幌)方面にあったこの鉱区は、羽幌炭礦鉄道㈱には引き継がれなかったようです。

 

【第四の鉱区】

天塩国採掘登録番号41、44は1901年に大松兼太郎が鉱区設定。

その後、渋谷嘉助に鉱業権が移り1916年(大正5年)~1917年(大正6年)に5~6千瓲を出炭したと。

しかし運搬設備が整備されていなかったことから続行が不可となり、出炭停止。

その後、羽幌炭礦鉄道㈱では羽幌本坑として戦後まで存続します。

 

これらが羽幌における最初期の鉱区でした。